「実を結ぶ種」 マタイによる福音書13章1~23節

深谷教会降誕節第8主日礼拝2022年2月13日
聖書:マタイによる福音書13章1節~23節
説教題:「実を結ぶ種」
    法亢聖親牧師
讃美歌:21‐402

 マタイ福音書には、様々なたとえが記されています。たとえは、話を分かりやすくするために用いられます。そうした意味から、ブドウ園のたとえや羊飼いのたとえなどイエスさまはたとえ話の名人ということができます。当時の人々にとって非常に身近な事柄を自由自在に用いながら、いつもぴったりと民衆の心に届くお話をされました。
 ところが、本日の聖書の箇所の中の10節から17節には、あえてイエスさまがたとえを用いて分かりにくくするというような(?)ことが記されています。10節から17節の新共同訳聖書の小見出し「たとえを用いて話す理由」と18節から23節の小見出し「種をまく人のたとえの説明」に関しては、説教の後半でお話したいと思います。
 まずは、1節から9節までのイエスさまの「種をまく人のたとえ」について解き明かしたく思います。1節から9節までの「種をまく人のたとえ」をイエスさまから直接聞いた人々は、純粋に感動して自分の信仰の問題として聞いたことと思います。自分の信仰はどの種の段階にあるかを自己評価するたとえとして聞いていたのです。
 この四つの種とは、様々な形でまかれた「福音の種」であり、それは私たちの信仰生活を指し示しています。アレゴリカル(寓喩的)な解釈をすると以下のようになります。
〇 第一は、道端に落ちた種。 道端というのは、人や馬車などによって踏み固められていますから根をはる余地がない人、即ち心が硬くて信仰を受け 付けない人、ずっと種のままの人、そういう種は、鳥が来て食べられてしまうのです(13章19節)。
〇 第二は、石地に落ちた種。石地は太陽の熱を吸収するので、発芽したとしても、根が焼かれてしまいます。「熱しやすく冷めやすいタイプの信仰者」ということでしょうか。熱心に教会に通っていたのに、突然来なくなるという人です。信仰がうまく育っておらずちょっとした環境の変化や興味がなくなったら「はいそれまでよ」といって教会から去って行ってしまう人です。植物は、根が地にしっかりとはってはじめて成長していけるのです。信仰は、イエスさまにつながり、イエスさまを土台とする教会に根を張り、み言葉という養分を吸収して成長していくものだからです。
〇 第三は茨の中に落ちた種。茨の中ですから石地と違い土に根を張り発芽することができるでしょう。しかし、茨に塞がれてしまうと光を吸収することができずに、枯れてしまうのです。つまり、様々な誘惑やつまずきなどによって信仰の種が覆われ、また傷つき枯れてなくなってしまうのです。       
〇 第四は、良い地に落ちた種。23節の「種をまく人のたとえの解き明かし」によりますと、「み言葉を聞いて悟る人」です。み言葉を悟るとは、み言葉を頭で理解するということではなく、神さまが伝えようとしていることに気づくということだと思います。その人の内でみ言葉を通して聖霊が働く時、神さまが生きて働いておられることが分り成長していくことができるのです。それが悟るということではないでしょうか。そのように良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶことができるのです。
 皆さまは、今現在どの種の状態におありでしょうか。ということで1節から9節の「種をまく人のたとえ」の寓喩的(ぐうゆてき)解釈による説教は終わるのですが、本日示されている聖書の箇所は、1節から23節です。
 そこでこれから10節から23節の解き明かしに入っていきたく思います。
 マタイ福音書とルカ福音書には、「種をまく人のたとえの説明」と「弟子たちがイエスさまに、なぜあの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」という問いが記されていますが、一番最初に成立したマルコ福音書の「種まく人のたとえ」には、そうしたことが付け加えられていません。つまり、「弟子たちの質問」と「種まく人のたとえの説明」はあとから加筆されたものであることが分かります。どうしてそのようなことが言えるかと申しますと、20世紀に入ってから神学の中でも聖書学が急速に進歩し、従来の逐語霊感的な聖書の読み方とは、違う読み方が生まれました。本文批評という聖書学のメソードです。その研究の成果の一つが本日の聖書の箇所です。本文批評(ほんもんひひょう)研究の結果1節から9節の「種まく人のたとえ」は、イエスさまが語られたものであり、18節から23節の「種まく人のたとえの解き明かし」は、後の教会の解説であるということが解明され、そして、10節から17節は1節から9節のイエスさまの「種まく人のたとえ」と18節からの「種まく人のたとえの説明」の橋渡しになっているということが分かってきました。
 つまり、10節以降は、初代教会の使徒たちの言葉です。ですから10節から17節はイエスさまと弟子たちの問答というより、初代教会の弟子たちがイエスさまのたとえを借りて自分たちの教団・教会の信徒たちに今自分たちが置かれている状況、教会が置かれている状況の中でイエスさまがこのたとえを通して何を伝えようとようとしているかを解き明かそうとしたのです。
マタイ13章10,11節に「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」と記されています。
ここで言う「天の国の秘密を悟ることが許されている者」とは、イエスさまをキリストと信じ受け入れ神さまの御国の世継ぎとされ(永遠の命を授かり)天国を目指して生きる者とされた人々・キリスト教徒のことです。そして、「あの人たち」とはイエスさまを信じない人たち、特に、キリスト教徒や教会を迫害する人たちのことです。  
 マタイ教団(マタイ福音書を聖典として生まれた教会のグループ)の指導者である使徒たちは、ユダヤ教や皇帝崇拝をしいたローマ皇帝からも迫害を受けていましたから、イエスさまのたとえをアレゴリカル(寓喩的)に解釈するのではなく隠喩的に解釈するように導いたのだと思います。それが18節から23節の解き明かしとなって付加されたのです。
私たちは、当事者以外の人がはっきりとわからないように、暗号にしてわかる人にだけわかるようなたとえを用いて語ったり書いたりすることがあります。キリスト教徒迫害の最中に書かれた代表がヨハネの黙示録です。黙示録は、当時の権力者であったローマ皇帝や配下の人たちを伝説の動物などに例えて記しています。ヨハネの黙示録13章などは圧巻です。二匹の生き物が登場し、そのうちの一匹は、ギリシャ語名を数字に直すと「666」となり当時のネロ皇帝を指すというのです。黙示録は、このようにして、イエスさまを信じない人たち(迫害する人たち)にはわからないようにして書かれています。ヘブル語で「たとえ」は「マーシャル」という言葉ですが、これは「なぞなぞを解く」という意味を持ちます。
聖典である福音書に記されている使徒たちの言葉も神さま・イエスさまの言葉として受け入れ聞いても差しつかえないのではないでしょうか。例えば、パウロの「神の力は、私たちの弱いところに十分に働く」(Ⅱコリント12:9)などの使徒パウロの言葉も聖霊の働きにより私たちの信仰を成長させてくださる神さまの命の言葉(ロゴス)だからです。
 ですから10節から17節の橋渡しの問答を通して18節~23節の「種をまく人のたとえ」を初代教会の使徒たちは、隠喩的(メタファー)、あるいは、黙示的(アポカリプス)に解釈するように勧めたのです。ですから、初代教会の信徒たちは、「種をまく人のたとえ」を隠喩的に受け止め、前者3つの種は、イエスさまをメシアとしない人々たちの迫害やサタンの誘惑を受けても、信仰の種を取り去られたり、枯らされたり、塞がれてしまわないように心掛け、また、どんな困難が降りかかっても反キリスト者のようにイエスさまを拒絶しないで第四の種のように、イエスさまをキリストと信じる信仰者として生き、その信仰のゆえに30倍、60倍、100倍の実り豊かな人生を歩んでいこうと前向きに受け止めたていったのです。
今、日本の教会は、初代教会とは違った危機の中に置かれています。日本キリスト教団では、大分前から2030年問題を協議してきました。それは、地球の温暖化(気候変動)の2030年問題ではなく、2030年までに教団の1700ある教会、伝道所が半減するという問題のことです。急速に進む日本の少子高齢化や日本人の宗教離れ、特に若者の宗教離れが宗教界に多大な悪影響を及ぼし始めているからです。そこに来てコロナ禍が宗教界の危機に追い打ちをかけています。こうした状況の中にある私たちの教会に本日のみ言葉は励ましを与えてくださっています。どんな困難な状況にあってもしっかりとキリストに結び付きキリストという地に根差していけば大丈夫とのメッセージが本日のたとえの根底から響いています。また、コロナ禍の中で公同の礼拝に集えず、互いを励まし合い祈り合う主に在る交わりができない状況にあって孤立しがちな私たち信仰者への励ましが響いています。麦が、麦踏みをされることによってよい実を結ぶように、今置かれている教会の危機を信仰の危機を乗り越えていく知恵と力を主に祈り求めつつ歩んでまいりたく思います。
 イエスさまのたとえは、時代を越え、また時代によって読む人や読む教会に対してその置かれている状況によって新たで適切な神さまのメッセージを伝えて下さるのです。皆さまの心には本日のたとえはどのように響いたでしょうか。

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